医療従事者による記事

サンタクロースを待つ大人

みなさんには、会いたくても会えない人っていますか? 天国にいった大切なひと・・・青春の1ページを過ごした仲間・・・分かり合えぬまますれ違っていった人たち・・・ 一緒に過ごした頃に思いを馳せてみると、その温もりに触れたくて時空を超えて会いに行けたらなんていう思いが浮かびませんか? 私にも、いくら会いたいと切望しても叶わぬ人がいます。 私は、大学生の頃に児童養護施設にて非常勤職員として働いていました。仕事内容は、グループホームでの宿直業務で、子ども達が幼稚園や学校から帰ってきたら、食事や風呂の準備、寝かしつけなどのお手伝いをしていました。 私が担当していた児童の中に、Kくん(仮名)という当時5歳の男の子がいました。 施設への入所経緯は、実親による身体的虐待(殴る・熱湯をかけられる等の暴力を受けていた)とネグレクト(親が育児放棄し、健全に成長をするために必要な食事や教育を与えられていなかった)を受けたことにより保護されました。 とても素直で可愛らしい子で、どこか遠くを見つめる寂しげな横顔が印象的でした。 大学生だった私は、教育らしいことなど何もできていませんでしたが、目いっぱい一緒に遊び、宿題をやったりして楽しく過ごしました。 ある晩、私が夜勤入りするとき、Kくんが「あいっ!」と言って、クシャクシャになったティッシュを渡してきました。 「これはなぁに?」と言いながら開けてみると、中には小さなクッキーが2つ入っていました。 当日の日勤職員によると、オヤツに出たお菓子を私のために残しておいてくれたというのです。 本当は全部食べたかったはずなのに・・・しかも毎日出るわけでもないオヤツをわざわざ残しておいてくれたなんて・・・ 小さな手に握られた優しさは、どんな高級なお菓子にも代えられない味わい深さでした。 Kくんが、小学校に入学する春が近付いてきたある日、里親さんに引き取られていきました。 どんな里親さんに引き取られたかも知りませんし、その後、どうなったかを知ることもありません。 被虐待児であったKくんの身の安全のためにも里親情報は極秘扱いですし、職員だからといって興味本位で調べるものでもありません。名前は知っていますが、里親先で養子縁組をした場合には姓も変わっているかもしれません。 どんな里親さんに育ててもらっているかな? 実のご両親に会いたいという思いが溢れ、辛い思いをしてないかな? 聞きたいことはたくさんあるけど、ただただ笑顔でいることを心から願っています。 身勝手な大人や不公平な社会に負けず、どうか幸せを掴んでいてほしいです。 そうそう、サンタクロースが来ることを信じて心を躍らせながら一緒に過ごしたクリスマスの夜、奇跡を信じることを教えてくれましたね。 あの夜、大人になると見えてくる世界もあれば、見えなくなってしまうものもあることに気付かされました。 いつしか私は、この目で見ることができ、手で触れられるものしか信じずに生きてきたのだな・・・と。 サンタクロースの存在を否定することが大人になることなら、奇跡を信じずに現実しか見ないのが大人になるということなのでしょうか。それが大人というなら、私は子どものままで良いのかななんて思いました。 この世の中には、現実や科学をも凌駕することだってたくさん存在します。 多くの人が流動するこの広い世界の中で出会えたという奇跡は、温かな思い出だけでなく確かな希望までも与えてくれます。 私もそんな奇跡を信じつつ仕事に励みますね。Kくんからもらったものを大切にしながら仕事を果たすことで、Kくんと繋がれていると感じることができますから。 イラスト:中村益己

「しょうがい」の表記方法について
~障害?障碍?障がい?~

 「しょうがい」という言葉の表記方法については、医療・福祉従事者、関係省庁、地方公共団体、障害当事者団体、企業関係者、学識関係者、マスメディア等の間で幾度も議論が重ねられてきました。このことは、日本国内だけでなく海外諸国でも、どのような言葉や表現が適切かについてのさまざまな意見が飛び交っています。 そのような中、現状の「しょうがい」の表記については、人物や団体によって「障害」「障碍」「障がい」「チャレンジド」等と異なっており、統一性のない状態になっています。それぞれの意見や見解が異なるのは当然のことなので、Brotherhoodでも、この「しょうがい」という言葉の表記方法について考えてみたいと思います。   日本では、2011年障害者基本法改正や2012年障害者総合支援法改正、2013年障害者差別解消法の制定を進めることで国内法の整備を行い、2014年には障害者権利条約を批准しました。これにより、本条約が日本にも効力を生ずるものとなりました。 障害福祉の風向きが、障害者の権利を積極的に尊重していく方向性に舵をきった現在においても、この分野における諸課題(差別・偏見、あらゆる場面における健常者との対等な関係性等)は未だに絶えていません。私たちが生活する社会には、若者、高齢者、障害者、病気を患っている人・・・さまざまな人々が存在し、その数だけの価値観が渦巻いています。果たして、私たちは、互いの価値観をどのように見つめ、捉えながら生活しているのでしょうか? 多様化の時代と言いながら、マジョリティ(多数派)の声が届きやすい世の中であるが故に、マイノリティ(少数派)への配慮が後手に回ってはいないでしょうか。私は、多数派・少数派に関係なく、それぞれが互いの権利を擁護し、双方の間にある障壁を取り除くように尽くす在り方こそ本来のあるべき社会の形と解釈しています。多数派が優位に尊重されて少数派が排除されるのを避け、双方の間を繋ぐためには、合理的配慮・寛容・譲歩といったものが必要となります。これにより一対の社会形成が実現できると信じています。そして、これらが不均衡になってしまうと、あらゆる「しょうがい」が生み出されるのかもしれません。不均衡にならないためには、「しょうがい」を抱えている人に主体性を置いて、物事を考察することが重要でしょう。 属性が変わったり世の中の状況や環境が変化し、マジョリティがマイノリティとなる構図変換が起きれば、誰しもがマイノリティになる可能性を秘めています。 また、現時点では良好な健康状態にあったとしても、誰しもが年齢を重ねれば高齢者になりますし、病気を患うことや障害を負う可能性を持ちながら生活しています。「しょうがい」について考えることは障害者だけに限られたことではなく、健常者も隣り合わせの問題として捉えるべきです。 「しょうがい」という言葉を他人事ではなく、自分自身に置き換えながら見つめ直してみると、その言葉にどのような意味が含まれるべきか見えてくるかもしれません。 「障害」を表記する上で問題視されている「害」という文字は「危害」「害悪」「阻害」「弊害」などにも使用される通りの悪いイメージを連想させることから、人を呼ぶときに用いるべきでないという意見があり、「しょうがい」表記を語る上での理論的争点となっています。また、「障」という文字にしても、「差し障り」「障壁」「支障」「故障」「罪障」などと負を連想させる言葉が多いので、こちらの使用にも異議を唱える人は多くいます。 「しょうがい」に対して悪い言葉を当てはめる意図などないはずが、結果として表記方法により悪い印象を与えているのも事実です。 差別的意味を一切含有しない中立的な言葉の表現にするためには、一体どのようにしたら良いのでしょうか。 NHKでは、障害者自体が害をなすという認識でなく、「社会の障害と向き合う者」という意味と捉えて、「障害」と表記しているそうです。これに対して、「障がい」という表記に改める団体も増えていますが、「害」を平仮名にしただけでは何も変わらないのではないかという意見も出ています。その言葉が有している意味を見つめ直さなければ、マイナスのイメージを想起させることに変わりはありません。言葉の意味には、おのずから備わっているものと私たちが意識して授けられるものとあります。 言葉と意味の相関関係について別の問題を取り上げて考えてみたいと思います。 昨今「あだ名」で呼ぶことを禁止する学校があるとのことですが、その真意はいかなるものなのでしょうか?あだ名を禁じれば、いじめや差別がなくなるという理由からかと思われますが、あだ名で呼ぶこと自体が必ずしも悪い行為かといったら、その限りではないのは周知の事実です。 親しみを込める意味で呼ぶ愛称は、人間関係の距離を縮め、関係性を深めてくれます。また、ニックネームで呼ばれることによって、自身のキャラクターを表現する人も多くいます。しかし、コンプレックスや身体的特徴等を皮肉る呼び名は、相手を傷付け、その傷が憎しみやトラウマになってしまうこともあります。 呼び名とあだ名、愛称と蔑称・・・これらの相違は一体何から発生するでしょうか?それはきっと表に出てくることはなく、私たちの心の奥深い部分まで掘り下げなくては分からないことかと思います。 社会全体の流れは、私たち一人ひとりの意識で築き上げられています。 差別に値するか否かはどのような意味を含んでいるかが問題ですが、もっとも重要なのは呼ばれている側がどう感じているかでしょう。 結局、どのように表記しようと根本的な解決はせず、障害者に向けられる意識や変えるべき環境などの社会的不利を改革しなくては何も意味を成しません。 障害者権利条約にもあるように、障害者の社会生活および参加の制限・制約をつくり出しているのが、個人の属性だけでなく、社会的障壁との相互作用によって生じるものです。よって、一方的な視点や意見に偏ってしまっては、共生社会の実現は成就できません。 心身に障害があることによって不利益を被っているのではなく、障害があると生活しづらい社会によって不自由を被るのです。 よって、「障害があっては生きていけない社会」を変えていかなくてはなりません。 私は、障害者を「害」になる存在だと考えることはなく、健康を害した方と社会との間にある障害を取り除くべきという障害の社会モデルの考えから「障害者」と呼ばせて頂きます。但し、こちらに差別的意図は皆無であったとしても、「障害」という言葉を使用することで当事者の方々が不快な思いをするようであれば、臨機応変に対応していきたいという考えであります。あくまで当事者がどのような呼称名や表記方法を望んでいるかに最大限配慮していきます。 イラスト:中村益己

Brotherhoodのリハビリテーション

Brotherhoodの提供するサービスについては会社説明の中にも記載しましたが、ここでは「一般的なリハビリテーションと当社のサービスの違い」「現代リハビリテーションにおけBrotherhoodの位置づけ」についてを中心に細かく説明していきます。 そもそもリハビリテーションの語源って? ラテン語で、re(再び)とhabilis(適した)を足して、「再び適した状態になる」「本来あるべき状態に回復する」等の意味があります。 但し、実際のリハビリ場面においては、障害を抱える前の状態にまで元通りになることもあれば、その限りでもないのが実状です。 WHO(世界保健機関)によるリハビリテーションの定義 「リハビリテーションは、能力低下やその状態を改善し、障害者の社会的統合を達成するためのあらゆる手段を含んでいる。 リハビリテーションは障害者が環境に適応するための訓練を行うばかりでなく、障害者の社会的統合を促す全体として環境や社会に手を加えることも目的とする。 そして、障害者自身・家族・そして彼らの住んでいる地域社会が、リハビリテーションに関するサービスの計画と実行に関わり合わなければならない。 日本におけるリハビリテーション 病気や外傷により心身に障害や生活への支障が生じたときに行われます。リハビリテーションは、急性期・回復期・維持期などの段階に分かれており、その段階や状態に応じた訓練・指導が行われ、それぞれの回復過程を辿ります。 その中でリハビリの専門家である理学療法士は、運動療法による機能訓練や物理療法での痛み緩和、福祉器具・環境の指導等を行い、患者さんが安全性の高い生活を送るためのお手伝いをします。 ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)の生活機能分類 ICF国際生活機能分類 ↑ICF(International Classification of Functioning, Disability and Healthの略、国際生活機能分類) ICFが広まる前は、ICIDHという国際障害分類が主流とされていました。 「ICIDH」は、1980年にWHOが公表した分類で、障害を機能障害・能力障害・社会的不利の3段階に分けて捉える障害の階層性を示すものです。しかし、客観的に障害を決定付けるマイナスな考え方でした。病気や障害などによる機能障害が能力障害(歩けない・階段の昇り降りができないなど)を招き、それによって社会的不利(外出できない・公共交通機関を利用できない等)が生じるという考え方でした。 そこで、個人個人の主観性を重視したものに改訂されたのがICFになります。 「ICF」は、人間の生活機能と障害についてを「心身機能・身体構造」「活動」「参加」の3つの次元及び「環境因子」等の影響を及ぼす因子で構成し、病気や障害をもった人自身やご家族、周囲の人たちが病気や障害の状態について共通理解するために用い、マイナスでなくプラスに考える概念となりました。その人の生活機能は健康状態だけで決定されるものではなく、家族や社会などの背景の影響も受け、相互に作用するものだからです。 また、個人モデル(その人自身の問題により日常・社会生活に制限が生じるという考え方)ではなく、社会モデル(社会側にある障壁によって障害が生じるものであるから、当事者だけでなく社会全体の共同責任と捉えて取り組んでいくという考え方)の考え方が重視されるようにもなりました。 このように分類する目的としては、その人個人をより深く掘り下げるためです。同じ病気や障害 をもった複数の人たちがいたとしても、その人たちが同じ状況に置かれる、あるいは同じ生活をすることはあり得ません。住んでいる家の環境やご家族の構成、状態、関係性などによって、個人個人の生活はまったく異なるものとなります。よって、それらを分類することで、社会側がなにをするべきかを導く指標として用いられます。 ICFは、「人がなにかを行おうと働きかけたときに生じるものが障害である。」と言っています。 Brotherhoodのリハビリテーション 病院やリハビリ施設で行うような身体機能へのアプローチ(関節可動域訓練や筋力強化訓練、歩行・動作訓練など)の重要性は論じるまでもなく、機能向上(維持)を図っていく上で欠かせません。しかし、訓練を継続的に行うことである一定(人によって異なる)までの回復は望めますが、必ずしも元通りまで回復するとは限りません。特に、ご高齢に方や重篤な障害を抱えている場合は、回復過程が難航するのが現実です(例:〇心疾患がある場合は過負荷がかけられないため低負荷の運動しかできない。〇関節が痛いため、思うように筋力強化訓練ができない。〇薬の副作用によりリハビリ意欲的になれない。〇食欲がなく食事摂取量が低下している。・・・など)。 よって、がむしゃらに機能訓練を続けていればいつの日か必ず回復するのは考え難いことです。 例えば、足腰の筋力が弱ったことにより歩行が不安定なご高齢のおばあちゃんがいたとします。その方が、毎日100回スクワットをしたとしたらしっかりと歩けるようになるでしょうか? 筋力がつくかもしれませんが、かえって膝の関節が痛くなってしまうかもしれません。 よって、ご高齢や障害を抱えている方々で、寝たきり状態や車椅子を使用しなくては移動できない方の活動量を向上させたい場合は、機能訓練を続けつつ別のアプローチも考えていくべきです。また、個人モデルでなく、社会モデルの概念をもって現実的かつ具体性に富んだ解決方法を追求していかなくてはなりません。 障害者がハンディキャップを克服できないのなら、社会側がハンディキャップになりうる障壁を無くすよう努めていくべきです。 この社会モデル自体も途上段階にありますので、Brotherhoodも理想的な社会モデルの理論と実践の発展へ向けて寄与していきます。 現代の医療と福祉は、保険の中で提供されることが主流です。しかし、保険内では、生活を営む上で必要な範囲内の支援は行なわれますが、それ以上の支援を求められた場合には対応できていないことが多いです。 よって、障害者の方々がより充実したサービスを受けるためには、保険外でも安全性が確保された質の高いサービスが整備されていく必要があります。 既存のサービスで不足している部分を補助および拡充をしていくことで、 社会モデルの変革を遂げていくべきと考えております。 参考文献 ① 一般社団法人全国地域生活支援機構ホームページ、ICF(国際生活機能分類)とは?~障害のある方を支援する場で使われる共通の言葉・考え方~、https://jlsa-net.jp/hattatsu/icf/ ② 厚生労働省ホームぺージ、国際生活機能分類について、https://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html ③ 福辺節子:「人生はリハビリテーションだ」義足の理学療法士がみつめた障害・自立・介護、2008年、教育史料出版会 ④ 佐藤仙務・恩田聖敬:「絶望への処方箋」、2017年、左右社 ⑤ 渡辺一史:「なぜ人と人は支え合うのか~障害から考える~」、2018年、筑摩書房 ⑥ ホーキング青山:「考える障害者」、2017年、新潮社 ⑦ 荒井裕樹:「障害者差別を問いなおす」、2020年、筑摩書房

ナチス・ドイツのT4作戦から障害福祉を考える

① T4 ② 1939/9/1 ③ 7万人 みなさんは、これらの数字やアルファベットが何を意味するかお分かりになりますか? ① のT4は、ドイツ・ベルリンにあるティアガルデン通り4番地の略になります。その地で、ナチス・ドイツ(アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党による支配下のドイツをさす)の優生思想に基づいた政策である強制的安楽死計画が行われました。その計画名が「T4作戦」と呼ばれています。 ② は、ドイツがポーランドへと侵攻し、第二次世界大戦が勃発した年です。その戦火の中でT4作戦が強行されました。 ➂は、そのT4計画による犠牲者の数です。また、この計画は、ユダヤ人やロマ族(ジプシー)その他の大量殺戮のモデルとなったともいわれていて、ホロコーストの犠牲者数は約600万人との報告があります。ヒトラーの命令を受けた医師たちの監督の元、病人や障害者が、ガス室で殺害されました。障害のある乳幼児も薬物注射か飢餓によって殺戮されるという「異常」とか「狂気」という言葉でも余りあるほどの非人道的な作戦でした。 ヒトラーは、「戦争は不治の病人や障害者を抹殺する絶好の機会である」と語っていたそうです。 この言葉からヒトラーは障害者に対してかなり強い軽蔑の念を持っていたことを察せられます。 市民や宗教家の反対にあいながらも、1940~1945年にかけて大勢の心身障害者や子どもが犠牲となりました。 ドイツ民族の強化を図る上で、排除しなくてはならない因子を強制排除しようとしていたようです。その因子はユダヤやジプシーなどの外的な人種差別による対象だけでなく、ドイツ内部の人々へも矛先が向けられていたのです。 ドイツ内部で排除対象となった人々が病人や障害者であり、静寂な遺伝子の産物という扱いを受けていました。そして、ヒトラーはドイツ民族の遺伝子群を弱める恐れがあると考え、「作戦を行使することで人類を計り知れない不幸から解放する。」と言い放ちました。 これは、2016年7月に神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺人事件(19名死亡・26名負傷)の犯人である植松聖死刑囚の犯行動機と酷似しています。 植松死刑囚は、「障害者は不幸をつくることしかできない。」と語って、凶行に及んだとのことです。 ヒトラーと植松聖・・・互いに知りえぬ者同士が、時空を超えてまで恐ろしい狂気に満ちた思想を持っているのです。 ヒトラーは演説の中で、 「平和は剣によって守られる」 「個人の幸福より公の幸福を優先せよ」 といった言葉を残しました。 私は、ヒトラーの言葉から「人を殺すのは、武器でなく思想である」ことに気付かされました。 戦火が燃える中では、人を殺すことも正当化され、殺戮者が英雄扱いされる狂った世の中になってしまいます。まさに平和な世界とは真逆の考え方が蔓延ります。 では、平和を誓った現代の世の中では、障害者に対してどのように接するべきなのでしょうか。 参考文献・参照資料等: ① ヒューG.ギャラファー(長瀬修=訳):「ナチスドイツと障害者安楽死計画」、2017年、現代書館 ② 産経ニュース 野口裕之の軍事情勢 https://www.sankei.com/premium/news/160808/prm1608080003-n1.html 2021/3/11閲覧 ③ J-castホームページ https://www.j-cast.com/tv/2016/07/29273860.html 2021/3/11閲覧

視覚障害者のリハビリテーション

障害といってもさまざま・・・

一口に障害と言っても、身体障害・視覚障害・聴覚障害・知的障害・内部障害・・・などとさまざまな障害が存在します。どこが障害されてもハンディが生じるでしょうし、障害によって困る内容も異なるかと思います。そこで、今回は「視覚障害」に焦点を当てて、お話したいと思います。 (さらに…)

介助と介護の違いについて

介助と介護の違いについて

「介助」とは、病気や障害などによって自由に動くことや生活がしづらい(あるいはできない)人に対して必要なお手伝いをする行為をいいます。 (さらに…)

誰でもできる簡単かつ安心な介助技術

ボディメカニクスとは・・・

介護の場面では、動けない(動きづらい)方を支える・抱える・持ち上げる等といった介助を行うことがあります。人が人を介助するにはそれなりの力を必要としますが、力任せに行うのではなく最小限の力で介助した方が、介助者も介助を受ける方も負担軽減されます。そのために必要な力学的相互関係を活用した技術のことを「ボディメカニクス」といいます。 ボディメカニクスは、「ボディ=身体」と「メカニクス=機械学」による造語であり、人間の身体が動くときの骨や関節、筋肉による作用を活かした技術をいいます。

ここから「ボディメカニクスの原則」について説明していきます。

〇支持基底面を広くする 「支持基底面」とは、人間が姿勢をとる際に支えている面積のことです。例えば、立っているときは、両足の裏が地面に接地しているかと思います。そのときに両足の爪先(つまさき)と踵(かかと)を結んでできた面を支持基底面といいます。この面の中に「重心」があり、面積が広いほど重心の移動がしやすくなります。逆に狭いと小さな面積の中で重心を保たなくてはならないので、姿勢を崩しやすくなります。 足幅を狭くして爪先で立ったら、支持基底面は両足の指だけになります。これでは、すぐにバランスを崩してしまいますよね? 介助をする際は、足幅を大きくすると支持基底面を広くとることができて、安定感が増します。 お相撲さんが踏ん張るときに足を大きく開くのが、まさに良い例です。 介助で抱えたり、持ち上げる場合は、足を大きく開いて踏ん張るようにしましょう!!   〇重心の位置を低くする 寝ている状態→座る姿勢に起き上がらせる、座っている姿勢→立たせる介助をするときは、膝を曲げ、腰も落とした姿勢をとり、重心を低くして行うと介助しやすくなります。 重心を低くした状態で介助する人を優しく支えると姿勢も安定し、介助を受ける方も安心感が増します。 逆に、低くかがまずに重心が高い状態で介助をすると、相手を吊り上げるようになってしまうので大きな負担が生じます。 座っている人を立たせる際などには、相手となるべく同じ高さまで重心を落として介助しましょう!!   〇重心移動をスムーズにする 持ち上げるより滑らせるように行う介助の方が最小限の力で介助できます。持ち上げる介助は、重力に抗さなくてはならないため、それだけ余分な力が必要となります。 よって、移動の向きを上方ではなく重力のかかりにくい横方向にスライドするように介助した方が小さな力で対象を動かすことができます。   〇重心を近づける 介助者と介助を受ける方が密着し、互いの重心を近付けることで安定感を確保します。これは、相手と接地している面が大きい方が、支持する面積も増大できるので、更に安定性を高まるからです。 バランスの不安定な方を介助する際には、なるべく密着するようにして介助しましょう!!   〇てこの原理を用いる 支点(支える部分)・力点(力を加える部分)・作用点(力が働く部分)の関係を利用することにより最小限の力で介助を行うことができます。 起き上がりや立ち上がりの介助をする際は、肘や膝を支点に定めて行うと、介助する力を発揮しやすくなります。   〇介助対象者の身体を小さくまとめる 介助する人の両手・両足を組んだり・縮めることで、身体がベッドや椅子に接地している面積が小さくなれば、摩擦発生も小さくとどめることができます。そうすることで、力の分散を防ぐことができるので、最小限の力で介助できます。   〇大きな筋肉を使う 大きな筋肉とは、胸筋や背中の筋肉、下半身(太もも)の筋肉などです。逆に小さな筋肉は、腕や手、指などですが、介助方法によって使用する筋肉は異なりますが、大きな筋肉を使ったような介助方法を習得すれば、介助者の介助負担軽減・腰痛防止にも繋がります。   これらの理論・技術を介護の現場に活かすことができれば、 介助を受ける方と介助する方の双方にとって安楽な介助ができます。介助をしていて腰痛が生じたことのある方は、力の使い方を再度見直す必要があるかもしれませんので、ボディメカニクスを駆使した介助をしてみましょう!!