医療従事者による記事

「しょうがい」の表記方法について
~障害?障碍?障がい?~

2021年11月30日

Brotherhood

 「しょうがい」という言葉の表記方法については、医療・福祉従事者、関係省庁、地方公共団体、障害当事者団体、企業関係者、学識関係者、マスメディア等の間で幾度も議論が重ねられてきました。このことは、日本国内だけでなく海外諸国でも、どのような言葉や表現が適切かについてのさまざまな意見が飛び交っています。
そのような中、現状の「しょうがい」の表記については、人物や団体によって「障害」「障碍」「障がい」「チャレンジド」等と異なっており、統一性のない状態になっています。それぞれの意見や見解が異なるのは当然のことなので、Brotherhoodでも、この「しょうがい」という言葉の表記方法について考えてみたいと思います。
 
日本では、2011年障害者基本法改正や2012年障害者総合支援法改正、2013年障害者差別解消法の制定を進めることで国内法の整備を行い、2014年には障害者権利条約を批准しました。これにより、本条約が日本にも効力を生ずるものとなりました。
障害福祉の風向きが、障害者の権利を積極的に尊重していく方向性に舵をきった現在においても、この分野における諸課題(差別・偏見、あらゆる場面における健常者との対等な関係性等)は未だに絶えていません。私たちが生活する社会には、若者、高齢者、障害者、病気を患っている人・・・さまざまな人々が存在し、その数だけの価値観が渦巻いています。果たして、私たちは、互いの価値観をどのように見つめ、捉えながら生活しているのでしょうか?
多様化の時代と言いながら、マジョリティ(多数派)の声が届きやすい世の中であるが故に、マイノリティ(少数派)への配慮が後手に回ってはいないでしょうか。私は、多数派・少数派に関係なく、それぞれが互いの権利を擁護し、双方の間にある障壁を取り除くように尽くす在り方こそ本来のあるべき社会の形と解釈しています。多数派が優位に尊重されて少数派が排除されるのを避け、双方の間を繋ぐためには、合理的配慮・寛容・譲歩といったものが必要となります。これにより一対の社会形成が実現できると信じています。そして、これらが不均衡になってしまうと、あらゆる「しょうがい」が生み出されるのかもしれません。不均衡にならないためには、「しょうがい」を抱えている人に主体性を置いて、物事を考察することが重要でしょう。
属性が変わったり世の中の状況や環境が変化し、マジョリティがマイノリティとなる構図変換が起きれば、誰しもがマイノリティになる可能性を秘めています。
また、現時点では良好な健康状態にあったとしても、誰しもが年齢を重ねれば高齢者になりますし、病気を患うことや障害を負う可能性を持ちながら生活しています。「しょうがい」について考えることは障害者だけに限られたことではなく、健常者も隣り合わせの問題として捉えるべきです。
「しょうがい」という言葉を他人事ではなく、自分自身に置き換えながら見つめ直してみると、その言葉にどのような意味が含まれるべきか見えてくるかもしれません。

「障害」を表記する上で問題視されている「害」という文字は「危害」「害悪」「阻害」「弊害」などにも使用される通りの悪いイメージを連想させることから、人を呼ぶときに用いるべきでないという意見があり、「しょうがい」表記を語る上での理論的争点となっています。また、「障」という文字にしても、「差し障り」「障壁」「支障」「故障」「罪障」などと負を連想させる言葉が多いので、こちらの使用にも異議を唱える人は多くいます。
「しょうがい」に対して悪い言葉を当てはめる意図などないはずが、結果として表記方法により悪い印象を与えているのも事実です。

差別的意味を一切含有しない中立的な言葉の表現にするためには、一体どのようにしたら良いのでしょうか。
NHKでは、障害者自体が害をなすという認識でなく、「社会の障害と向き合う者」という意味と捉えて、「障害」と表記しているそうです。これに対して、「障がい」という表記に改める団体も増えていますが、「害」を平仮名にしただけでは何も変わらないのではないかという意見も出ています。その言葉が有している意味を見つめ直さなければ、マイナスのイメージを想起させることに変わりはありません。言葉の意味には、おのずから備わっているものと私たちが意識して授けられるものとあります。

言葉と意味の相関関係について別の問題を取り上げて考えてみたいと思います。
昨今「あだ名」で呼ぶことを禁止する学校があるとのことですが、その真意はいかなるものなのでしょうか?あだ名を禁じれば、いじめや差別がなくなるという理由からかと思われますが、あだ名で呼ぶこと自体が必ずしも悪い行為かといったら、その限りではないのは周知の事実です。
親しみを込める意味で呼ぶ愛称は、人間関係の距離を縮め、関係性を深めてくれます。また、ニックネームで呼ばれることによって、自身のキャラクターを表現する人も多くいます。しかし、コンプレックスや身体的特徴等を皮肉る呼び名は、相手を傷付け、その傷が憎しみやトラウマになってしまうこともあります。
呼び名とあだ名、愛称と蔑称・・・これらの相違は一体何から発生するでしょうか?それはきっと表に出てくることはなく、私たちの心の奥深い部分まで掘り下げなくては分からないことかと思います。
社会全体の流れは、私たち一人ひとりの意識で築き上げられています。
差別に値するか否かはどのような意味を含んでいるかが問題ですが、もっとも重要なのは呼ばれている側がどう感じているかでしょう。

結局、どのように表記しようと根本的な解決はせず、障害者に向けられる意識や変えるべき環境などの社会的不利を改革しなくては何も意味を成しません。
障害者権利条約にもあるように、障害者の社会生活および参加の制限・制約をつくり出しているのが、個人の属性だけでなく、社会的障壁との相互作用によって生じるものです。よって、一方的な視点や意見に偏ってしまっては、共生社会の実現は成就できません。
心身に障害があることによって不利益を被っているのではなく、障害があると生活しづらい社会によって不自由を被るのです。
よって、「障害があっては生きていけない社会」を変えていかなくてはなりません。

私は、障害者を「害」になる存在だと考えることはなく、健康を害した方と社会との間にある障害を取り除くべきという障害の社会モデルの考えから「障害者」と呼ばせて頂きます。但し、こちらに差別的意図は皆無であったとしても、「障害」という言葉を使用することで当事者の方々が不快な思いをするようであれば、臨機応変に対応していきたいという考えであります。あくまで当事者がどのような呼称名や表記方法を望んでいるかに最大限配慮していきます。

イラスト:中村益己


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この記事はBrotherhoodが執筆しました。
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